和服の着付けのようなきっちりとした縛りには魅力を感じないと云ったのは鏡堂雅画伯だ。そこには美はあっても面白みが無い。あじとはひねりだと江戸の先人は粋を誇っていた。最近の縛りをみると皆が同じような縛りを繰り返している。なぜだろう。
縄筋、縄の空間処理などを創らないのか、出来ないのか。人の真似から学ぶのは常套手段だが、そこからプロの道に入るのであれば個性をつくるべきだ。もっと悪いことは惰性にはしる、少しばかり人気が出ると天狗になる、天狗になるのはのは悪い事ではない、厳しい修験者の天狗さんの姿を畏怖の念でみる俺は。天狗さんは修行を怠らない。
あしかけ7年あまりを美帆と写真を撮ってきた。初めのおこりは幾度も緊縛新聞に書いた。最近は来年2月の個展が決まり。そのせいか以前には決して口にしなかった、俺の写真に作品と云うようになった。もちろん仕事で撮る写真を作品とは云わないでエロという。ということは作品の被写体にしているのは美帆であるから彼女は俺にとって特別な存在である。実際に7年間の歳月から生み出した二人の作業は俺にとって作品としてなされようとしている。俺のアイデアを受け止めて美帆が形を創る。その感動で写真ができる。それはあくまで俺の個人的な写真かもしれない、縄マニアには価値のないものであるかもしれない。だが今の俺はそれを撮りつづけようと+縄+想い美帆と題してツィートしている。そしてそれはまだまったくの未完成な域にあると思っているやさきに、美帆が被写体を投げ出そうとしているピンチにある。確かに毎回前手で縛るぐらいの拘束では彼女には欲求不満がつのるばかりで、すまないことをしているという思いではある。
これは個展にて「もう一つの俺の縄」として発表する。そのために今夜も美帆と喧嘩をしながら継続をうながさなければならない。最近の喧嘩のネタは「お前がほかの女を縛る」と罵るのである。クラウドのリターンの約束であるとの説明はつうじない。「お前は写真家を捨てた」これは俺たちの仲間のカメラマンの多くが離婚の原因になった悲しい性ではないでしょうか。だが俺はこのテーマがたどりつけるまでは頑張る。
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